「残饌」(‘ucchiṣṭa’)

2月16日(火)、T大学のG先生よりご講義を受ける。講義はヴェーダ学における「業と輪廻」に関するものであったが、その講義の余韻は「旅」に似ていた。いい講義とはそのようなものなのだろう。遠近法的には<点>にしか感じないようになっていたヴェーダ学への思考停止状態から、気がつけばヴェーダの天空地の三界のもとに、無知のまま、しかし清々しく、連れ出された感覚。この余韻が随分と長くつづいた。その余韻を確かめるように、講義のなかで推薦された図書を入手し、読んでいた。一冊は伊谷純一郎の「トゥルカナの自然誌」(『伊谷純一郎著作集<第5巻>』平凡社、所収)、もう一冊はマリヤ・ギンブタスの『古ヨーロッパの神々』(言叢社)。
G先生とは懇親会のあともN駅までタクシーでご一緒し、さらに駅の傍の居酒屋にて2時間ほど、親しく歓談させていただく。
大学の学生(3年次)であったとき、「残食」に関するレポートを書いて以来の文献的な行き詰まりについて吐露。すると先生、間髪入れず「‘ucchiṣṭa’です」」。
学生時代のレポートというのは、『マハーバーラタ』のなかの「悪魔を食べたアガスティヤ」のエピソードを序文とし、仏教のなかのそのテーマ(阿含経典と大乗経典のなかでの機能の転換)を扱ったものである(これはリライトするつもりなので、詳細は省く)。手元の中村元の『インド思想史』「アタルヴァ・ヴェーダの哲学思想」の項、祭式の残饌(XI, 7)の「残饌」(p.19)には、目立つように赤い点が打たれているが(学生時代のもの)、この「残饌」の原語が‘ucchiṣṭa’である。内容に当たりたく、早々に、William Dwight WhitneyによるAtharva-Veda samhitaの英訳*1を求める。
辻直四郎の『サンスクリット文法』のp.35、口蓋音語幹の例中に、śeṣa-bhuj- adj.‘残りを食べる’も学生以来、気になっていたところ。「残饌」同様、点をふった思いのまま、いわば、思索の凍土と化していた態が思い知らされるのだが、一回の出会いにおいてたちどころに氷解する感動も味わった。

今回の東日本大震災の揺れのなかで、G先生の安否が真っ先に気になったのであるが、ご無事であることを祈念しています。

伊谷純一郎著作集5 遊牧社会の自然誌

伊谷純一郎著作集5 遊牧社会の自然誌

古ヨーロッパの神々

古ヨーロッパの神々

*1:Atharva-Veda samhita; translated with a critical and exegetical commentary by William Dwight Whitney. Revised and brought nearer to completion and edited by Charles Rockwell Lanman (1905)