「闘え! 猫兄貴」の巻 ── 今は亡き、きじとらの思い出に捧ぐ ──
西日が射し、居間の空気はどんより澱んでいた。
巣鴨にあるこの家の留守をたのまれて、そろそろ約束の一週間がたつ。猫兄貴は夜だけここに泊まりにくる日がつづいていた。
家人の帰宅にそなえて部屋をきれいにしようにも、操作を教わった掃除機がどこを探してもみあたらない。仕方なく「コロコロ」を持参してせわしげにコロコロやっていると、必死に笑いをおし殺そうとしている年増の唇音がした。
「なによー、もー」
猫兄貴は苛立つ。
設計に反して吸い口から吹き出してしまった掃除機らしいこの年増にとって、珍客をからかうことがたいそう楽しいらしかった。
それにしてもこの家のすべてのものが古かった。たしかに家のうつわにくらべれば、電化製品の歴史はたかだかしれている。東芝が1931年(昭和6年)に日本で最初の電気掃除機を発売して以来、もう何世代、代を重ねていることだろう。先日操作を教わった掃除機は、たぶん60年代のシロモノであった。だが人よ、あなどるなかれだ。「ドッグ・イヤー」というように「家電イヤー」なるものがあるに決まっている。そしてこの屋敷の家電はどれもこれも300歳を越え、漸う化けることをおぼえているらしかった。
うちのなかを徘徊し、時折腰かけてはため息をついているのは、昭和42年製の電気釜である。スイッチを入れるまえから、こんなふうなパフォーマンスで湯気を出していた。こんな釜で炊いたご飯が胃のなかでよく消化するだろうか。 猫兄貴はいつもコンビニでおにぎりを求めて、徘徊釜を横目に口いっぱいにほおばった。お給金の特別手当のワケを知ると、いきおいじぶんを奮い起たせていたのである。
ときどき邪魔になる電気釜を急かしたり、どいてもらったりしながら、コロコロで部屋の半数の掃除を終えた。なにしろ広い家なのとコロコロの効率の悪さとで、じゅうぶん疲れたといったところだったが、いやな女がずっとみている視線と遠く異界から聞こえてくるようなひとを小バカにした笑い声のために、そんな素振りはみせられなかった。
天然無垢材の一枚板のテーブルの上にコンビニの袋の中身をくつがえし、いつもの直巻きおにぎりを取りだした。
じつのところ猫兄貴はめげていた。
数日来、仕事で持ち込んだ愛機のワープロの、なにやらその形状の輪郭がたわみだし、この屋の空気を明らかに呼吸しているふうだったから。彼女が深夜、このワープロに向かっている最中も、発情期をむかえた畜生のようにまるでいうことを聞かなくなっていた。そのことがいちばん堪えていたのだ。
「掃除機婆とできやがって、貴様、どんな子孫を残す気だ」
きっとだれもが猫兄貴のいぶかる意見に賛同するだろう。天はこのくそ忙しい時期にこんな配剤をもてあそび、原稿の締め切りに追われる彼女はふたりの宿命に嫉妬していた。キーに反応しない昨夜のかれの態度を思い出すと悔し涙が込み上げ、鳥五目の鳥肉のパサパサ感が咽喉につかえた。
すると背後の天井の角であろう、またも年増のくちびるを震わす声が聞こえた。4,5度、立てつづけにしたかと思うとこんどは哄笑へと変わった。
猫兄貴は振り向きざま、2個目の特製ちまきおこわを声のするほうへ投げつけた。
瞬間である、しゃっくりのような息を吸い込む音現象があり、しばらくの沈黙があった。そして天井に張りつくにはあまりに大きな図体の影が現われだしたのである。中年の中太りの、やはり女だった。口にはちまきおこわをくわえ、ものすごい形相でみひらいた目ん玉の黒目の部分は中央に寄り、みるみる虚ろになっていった。
バサッ、どてっ
最後まで抗い、精いっぱい肉体を保ち、ショックをやわらげるように「それ」は落ちてきた。ただの掃除機である。しまい忘れてあったようにホースを投げだし、中途半端に電源コードをたらしていた。
(2000.10.13. 7:25a.m.)
カラスがケイタイ(声帯)模写で起こしにくる話
2011年6月30日
けさ、ちょうど午前5時、カラスが起こしにくる。
目覚ましは毎日携帯電話を利用し、バイブ(モード)で充電器にセットしている。タイマーは午前5時3分。きょうのカラスの鳴き声であるが、ドイツ語のRをしぼり出すような声で、一定の間隔で寝室にむかってぶつけてくるようであった。起きてカーテンを開けると、たしかにベランダの格子に足をかけ、こちらに顔をむけたカラスが止まっていた。それは急ぎ飛び去ったのだが、「待てよ」と思った。携帯電話がセットしてある充電器ごとテーブルの上で共鳴しだしたケイタイの振動は、いまのカラスの鳴き声ではなかったか。カラスは連日のわたしの起床劇のなかで、このバイブ音を日々耳に焼き付けていたのだろうか。とりあえず、きょうのところは、茶目っ気のあるカラスのわたしへの親愛の情として受け止めておくことにしようと思う。
※また、その<直前の夢>──飯島愛が肥満の少年を育てていた。少年はたこ焼きのソースで口の周りを汚しながら、寂れた店舗のテーブルで無邪気に食事をしている。初老の紳士たちが飯島愛からスピリチュアルなアドバイスを受けるなかで、わたしだけ、部屋の奥へ通され、何か特別なフランス料理のコースを饗されていた。飯島愛からは、「今、ある宗教教団よりその能力を買われて声が掛かっているのだが、……」と相談を受けているところだった。夢から覚めようとしたある時点、彼女が亡くなった人であるということが奇異に感じられた。
「近代という病い」と『苦海浄土』
4月11日、石牟礼道子氏インタビュー「近代という病いをみつめて─『苦海浄土』の「世界文学全集」(河出書房新社)収録を機に─」(『週間読書人』2011年2月25日)読。
ちょうど一年前(4月2x日〜2x日)、ある財団の企画による水俣をフィールドとする地元学の現地学習会に参加した*1。水俣市立水俣病資料館では、冊子『知らないのは罪 知ったかぶりはもっと罪 嘘を言うのは、もっともっと罪 ─ 杉本家の水俣病50年 ─ 』を求める。これは吉本哲郎さんが編集したものであるが、水俣へ行く以前・以後、杉本栄子さんに惹かれ続けている。だが、その先へは……せつな過ぎて近づけない。
水俣病が肥料工場の排水が原因であることが1956年に熊本大学医学部の研究班によってつきとめられている。59年には有機水銀化合物による病理も解明され、同年には厚生省の水俣病食中毒部会が原因を把握し答申も行なっていた。にも拘わらず、当時、通産大臣の池田隼人がこの答申を「早計」とする発言をする。翌60年に池田内閣が発足し、「所得倍増計画」が謳われた。この「留保」は、たんなる個別大企業への監督官庁の保護とてこ入れといった以上の政治的意思がはたらいていたわけである。そして答申から9年後の1968年、電気化学から石油化学への転換の中で、旧式の製造工程が最終的に「用済み」となってから、公害の原因を正式に認める「政府見解」が発表される(『現代社会の理論』pp.54-61参照)。
原発とはなにか、現在、福島原発で起こっている事態がなんなのか、国策として推し進めてきたチッソと同類の問題が、さらに大きな問題(こちらもある種、TSUNAMI)として押し寄せているということなのであろう。すると、下記の、杉本栄子さんが原罪として背負った病いとはなんであったのだろうか*2。
石牟礼道子氏インタビュー「近代という病いをみつめて」(『週間読書人』2011年2月25日)より(下記、引用箇所は2面);
……(略)……
[石牟礼] 変わってないですね。水俣の私の家で「不知火海百年の会」という集まりを20年ばかり続けてきたのですけれども、その中心メンバーに杉本栄子さんご夫妻がおられます。栄子さんは亡くなられましたけれど、亡くなる一月程前に「道子さん、私はもうあんまりきつかけん、許すことにした」って言われたんです。「今まで仇討ちせんばと思うて生きてきたばってん、もうきつか。チッソを許すことにした。考えてみると、知らんちゅうことは罪ばいなあ」とおっしゃいました。この言葉はいわゆる哲学書を読んでおっしゃったわけではありません。水俣病を病んでこられて、近所隣から魚が売れんごとなった、どうしてくれるかと言われ、深夜になると、家の周りを大勢でぐるぐると取り囲む足音がして、「月夜ばかりじゃなかっぞ、闇夜もあったぞ」という声がしばしば聞こえたそうです。とっても恐ろしかったって。まあ近所の人たちもチッソも行政も患者さんの一日一日というのがどういう苛酷なものか、知らないわけでしょ。四代にもわたって発病して、一軒の家で六人、七人という家はざらなんです。そうした日常生活を知ろうともしない人びとが圧倒的にたくさんいる。人間というものは原罪を背負っているとは、哲学上の常識でしょうが、現代に入ってから、人間とは何かという苛酷な命題が出て来ました。それで栄子さんはその罪を全部許すと。そうしてみんなの罪に代わって水俣病を病み直すことにした。水俣病を守護神にして全部引きとって私どもが病みますとおっしゃいました。そういうお言葉と命を平気で値切って特措法などというまやかしの法律を作り、今度はチッソが分社化をするという。誰が考えても逃げ出すためとしか思えないそんな法律用語とはあまりにも質が違います。みんなの罪を全部自分が引き受けたという患者さんの言葉と、商売上の取引ぐらいにしか思わず、どうやって切り捨てていくかということに腐心している考えとの落差を私は思います。今の世の中は命なんて考えないでしょう。これで環境立国と言えるのでしょうか。
……(略)……
ビデオメッセージ
石牟礼道子『苦海浄土』刊行に寄せて
http://www.youtube.com/watch?v=n7VB2U4kA1M
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現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)
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*1:。地元学の提唱者・吉本哲郎さん、GNHの研究者・草郷孝好さん、杉本栄子さんのご長男の肇さん、前水俣市長の吉井正澄さん、……に言及しないではいられないのだが、そこは押し殺すことにしよう。宿となったあさひ荘の露天風呂(温泉かけ流し)に未明より一人、湯に浸かっていた。水俣は徳富蘇峰・徳冨蘆花の生まれたところ。蘆花の『自然と人生』の落日の描写を思い出しながら、日の出を待った。落日は相模灘で、蘆花が兄と和解したのは伊香保温泉であるし、ロケーションが違うのであるが、蘆花を思った。山の端が白み始めるころ、草郷さんと湯船で一緒になる。……
*2: 福島原発の津波による被害を受け、大江健三郎が米誌「ニューヨーカー」にて、日本の原子力発電とヒロシマ・ナガサキの原爆被害者との関係性について「歴史は繰り返す」という題で批判文を寄せている。http://www.newyorker.com/talk/2011/03/28/110328ta_talk_oeここでは、原子炉の建造で、同じ人命軽視の過ちを繰り返すことが、ヒロシマの犠牲者たちへの最悪な裏切りであると告発する。‘To repeat the error by exhibiting, through the construction of nuclear reactors, the same disrespect for human life is the worst possible betrayal of the memory of Hiroshima’s victims.’
4月14日、国公立所蔵史料刊行会編纂『安政大地震鯰繪』入手。
4月14日(木)、国公立所蔵史料刊行会編纂『安政大地震鯰繪』*1(誠文図書、昭和54年6月30日)を入手。画像を個人PCに取込んだ後、翌15日、「解題」読了。鯰絵の解釈のなかに他の書*2の解説と若干ニュアンスの違うものがあり、確認。実際の詞書に対して本書の解説が一歩踏み込んだところがあるようだが、材木屋、医者、鳶、左官、飯屋……の表情まで読むならば首肯できる。震災直後から復興事業の終了に至る後者の頃のものともなれば不謹慎なものも出てこよう。以下は、「解題」の目次と鯰繪目録;<解題>
「地震と鯰繪のお話」
一 安政大地震の歴史的意義
二 安政大地震の概要
三 安政大地震の被害状況
四 安政大地震余聞 ─大地震の前兆の話─
五 安政大地震と鯰繪
「地震暦」
i、ii*3 江戸大地震出荷場所附(太平安心堂蔵板)
〔其ノ壹〕「地震出火後日角力」の話
〔其ノ貳〕「大鯰後の生酔」の話
〔其ノ参〕「太平安心之為」の話
〔其ノ四〕「地震、雷、火事、親父」の話
〔其ノ五〕吉例「暫」の話
〔其の六〕「地しんどう化大津ゑぶし」
〔其の七〕「雨には困り□(ます) 野じゅく しばらくのそとね」
〔其ノ八〕「鹿島大神宮と要石と大鯰」
〔其ノ九〕「世ハ安政民之賑」
〔其ノ拾〕「鯰退治」の話
〔其ノ拾壹〕「臆病地震鯰親子」の話
〔其ノ拾貳〕“生捕られた三匹の鯰”の話
〔其ノ拾参〕“地震鯰筆をふるう”話
〔其ノ拾四〕“吉原に繰込んだ職人”の話(其ノ一)
〔其ノ拾五〕“吉原に繰込んだ職人”の話(其ノ二)
〔其ノ拾六〕“地震鯰と世直し”の話
〔其ノ拾七〕“百万遍と地震”の話
〔其ノ拾八〕“大鯰江戸の賑い”の話
〔其ノ拾九〕“世直し鯰”
- 作者: 宮田登,気谷誠,今田洋三,高田衛,北原糸子
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「残饌」(‘ucchiṣṭa’)
2月16日(火)、T大学のG先生よりご講義を受ける。講義はヴェーダ学における「業と輪廻」に関するものであったが、その講義の余韻は「旅」に似ていた。いい講義とはそのようなものなのだろう。遠近法的には<点>にしか感じないようになっていたヴェーダ学への思考停止状態から、気がつけばヴェーダの天空地の三界のもとに、無知のまま、しかし清々しく、連れ出された感覚。この余韻が随分と長くつづいた。その余韻を確かめるように、講義のなかで推薦された図書を入手し、読んでいた。一冊は伊谷純一郎の「トゥルカナの自然誌」(『伊谷純一郎著作集<第5巻>』平凡社、所収)、もう一冊はマリヤ・ギンブタスの『古ヨーロッパの神々』(言叢社)。
G先生とは懇親会のあともN駅までタクシーでご一緒し、さらに駅の傍の居酒屋にて2時間ほど、親しく歓談させていただく。
大学の学生(3年次)であったとき、「残食」に関するレポートを書いて以来の文献的な行き詰まりについて吐露。すると先生、間髪入れず「‘ucchiṣṭa’です」」。
学生時代のレポートというのは、『マハーバーラタ』のなかの「悪魔を食べたアガスティヤ」のエピソードを序文とし、仏教のなかのそのテーマ(阿含経典と大乗経典のなかでの機能の転換)を扱ったものである(これはリライトするつもりなので、詳細は省く)。手元の中村元の『インド思想史』「アタルヴァ・ヴェーダの哲学思想」の項、祭式の残饌(XI, 7)の「残饌」(p.19)には、目立つように赤い点が打たれているが(学生時代のもの)、この「残饌」の原語が‘ucchiṣṭa’である。内容に当たりたく、早々に、William Dwight WhitneyによるAtharva-Veda samhitaの英訳*1を求める。
辻直四郎の『サンスクリット文法』のp.35、口蓋音語幹の例中に、śeṣa-bhuj- adj.‘残りを食べる’も学生以来、気になっていたところ。「残饌」同様、点をふった思いのまま、いわば、思索の凍土と化していた態が思い知らされるのだが、一回の出会いにおいてたちどころに氷解する感動も味わった。
今回の東日本大震災の揺れのなかで、G先生の安否が真っ先に気になったのであるが、ご無事であることを祈念しています。
- 作者: 伊谷純一郎
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2011年3月29日、『MEGAQUAKE 巨大地震』(全4回)のDVD-BOXを入手。
昨年1月から3月にかけてNHKスペシャルで放映された『MEGAQUAKE 巨大地震』(全4回 http://www.nhk.or.jp/megaquake/ )のDVD-BOXを入手した。震災直後、一時的に在庫切れとなっていた。本日、全巻視聴。感想はいつか書くかもしれない。
ところで、今年1月13日(木)より3月17日(木)にかけて、フジテレビにて『外交官・黒田康作』(全十話)を録画しながら観ていた。音楽を共に菅野祐悟がてがけていて、耳にこびりついたBGM、悪くはないんだが、なんだかなあ〜、と思えるところは、『MEGAQUAKE』の仕上がりのよさに反して、いまの事態の耳底で同じテーマ曲が反響して聞こえてくることだろうか。この事態にBGMをつけることなど不謹慎の極まりなのだが、『外交官……』と連合している。思い出すことが一つ、—— 阪神淡路大震災の当日、フジテレビでは音楽をつけて被災の映像を流していたことである。そのときのM.Cは、今回ご親族(とご自身)が罹災されたというH.I.さんであったこと、久しぶりにTVで顔を見、名状しがたい因縁を感じる。
「志ばらくのそと寝」以来、戯画化され、焼きついたイメージから逃れるために告白しよう。
わたしが瓦版の絵師ならば、こう描く。—— 四つん這いの海老蔵に、鯰髭を生やした伊藤リオンが原発を振り翳し、いまにも打ち下ろそうとしている。海老蔵は右手を突き出し、「しばらく!」の構図。この態勢から形勢逆転を計るには、たいていの場合、目潰しなのだが……(罰当たりなアイデアはある)。
また、前回、浅田彰の『構造と力』に触れたところ、最近のCM「RECRUIT fromAnavi フロムA子「中庭」篇」で、小池栄子がベンチに座ってこの本を読んでいる。CMは、You Tubeに3月25日アップ(http://www.youtube.com/watch?v=MmDfaH0gYNw)。「あなた、二代目A子になれるかも」と言って手を振りながら去る「栄子」の後姿を見て、「映子」のセリフは、「歌舞伎みたい」。─ 海老蔵とは、関係ありません。
NHKスペシャル MEGAQUAKE巨大地震 DVD-BOX
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「志ばらくのそと寝」と海老蔵 ─ 伊藤リオンは福島原発か
20011年3月15日、気谷誠著『鯰絵新考─災害のコスモロジー─』(ふるさと文庫、筑波書林、1984.11.15)読了。
仮名垣魯文による「志ばらくのそと寝」という鯰絵は、市川団十郎(鹿島大明神の立ち位置)が鯰坊主を「要石」で取押さえるという構図である。歌舞伎十八番の「暫」は、震災の取り戻すことのできない発生時へ「しばらく!」と物申す。「しばらく!」と声を掛けてなだれ込むのは市川団十郎が扮する豪傑、彼はたちどころに鯰坊主をはじめ悪人郎党を成敗する。これは震災後の、一種の勝利白昼夢なのであろう。市川家のお家芸であるこの演目だが、昨年11月25日、海老蔵が伊藤リオンにボコボコにされたのは縁起が悪かった。穿ってみればリオンは福島原発になぞらえられよう。鯰を押さえきれなかったのはさておき、現状は福島原発の「しばらく!」である。
以下、メモ。
災害を祝祭と呼ぶことはできないが、祝祭を享受する江戸の人々の感性の中に、災害をもとらえて祝祭の機能を果たさせる、つまり外部からの偶然の力をも柔軟に取り込んで自らの祝祭として利用するしたたかさがある。その意味で江戸の社会は堅苦しい身分制度などにかかわらず閉ざされてはいない。閉塞した社会は、他を拒む自我と同様、自らの沈滞したエントロピーの捌け口を見失うことで自滅するだろう。閉じられた感性にとって、自滅こそが残された最後の祝祭である。(pp.53-54)
最近、『構造と力』をん十年ぶりに手にしたところへ、佐々木敦著『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009年7月)でおさらいまでさせられたところであった。そこにまたこの本で引用されるので、以下、鯰絵のからみの部分を抜粋。
祝祭的な時空を節目として秩序と混沌とが作り出すコスモロジカルな弁証法が、今日の社会にあっては貨幣を核とした流動的な消費の循環に取ってかわられたことを、浅田彰が『構造と力─記号論を超えて』(勁草書房、一九八三年)に論じている。
「商品交換による脱コード化が一般的な規模で進行することによって、貨幣を整流器とする膨大な前進的な流れとしての近代社会が成立してしまった以上、その現実を無視した議論はもはや有効性をもちえない。(中略)近代社会はそれ自体カオスの吸収装置とでも呼ぶべき仕組みになっており、その融通無碍な機能ぶりは、侵犯のエネルギーをなしくずしに回収してしまうだろう。カオスの噴出による祝祭的革命というイメージは美しいが、ひとたび脱聖化された社会に祝祭の興奮をよびさますことは絶望的に困難である。」(「 」は筆者)
人は恒久的な生産向上をめざし、貨幣経済のなかに身を投じることによって、自己を問い続ける手間を解消してしまったのである。これを前近代から近代への移行とみなすならば、鯰絵は前近代の末期に咲いた珍妙な祝祭の徒花と言うことができる。実際鯰絵の象徴秩序が、貨幣を中心とした経済観念に侵蝕されはじめていることは、鯰絵自身に読みとることができる。
例えば鯰絵では鹿島大明神や鯰が格別の神威や破壊力を示すことなく、庶民と同列に描かれることがある。鯰絵は一方で鹿島大明神と鯰が両者の持つ象徴的な意味に立脚して秩序と混沌から成る世界構造を示すのに対し、他方ではこの両者が庶民生活にとり込まれた図柄によって、一見風俗画の様相を呈しているのである。鯰絵に限ってこれを見れば、北原糸子は『安政大地震と民衆─地震の社会史』で、前者を「神性を認められる鯰」、後者を「人間に対立するものではない」「庶民そのもの」の鯰とし、その形態からそれぞれ「大鯰と小鯰」と呼んで分類している。
鯰が庶民に同席する図柄は先にいくつか示したが、図21の「生捕ました三度の大地震」では、鯰を捕らえた鹿島大明神に、職人たちが親しげに話しかけている。(以下、略)(pp.79-80)
20011年3月16日〜21日、宮田登/高田衛監修『鯰絵─震災と日本文化』(里文出版、平成7年9月25日)、コルネリウス・アウエハント著『鯰絵─民俗的想像力の世界(普及版)』(せりか書房、1986年6月15日)再読。
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- 作者: コルネリウス・アウエハント,小松和彦
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