小泉義之著『病いの哲学』(ちくま新書 2006年4月)を読み始める。

「はじめに」および「第1章 プラトン尊厳死──プラトンパイドン』」を読み終えたところ。
小泉氏は、「はじめに」で、

(省略)要するに、本書で、私は、生と死の二者択一に抗して、生と死の二分法を越えるような存在の仕方を断固として肯定したいのであり、その重要な系として、病人の生を肯定して擁護したいのである。
 本書の前半では、肉体的な生存の次元に気付きながらも、死に淫していく哲学の系譜を取り出す。すなわち、ソクラテスハイデッガーレヴィナスである。だから、前半は、ある意味で、「敵」に塩を送ることにもなる。尊厳死安楽死脳死などを肯定する人の議論の水準を底上げすることにもなるからである。
 本書の後半では、生と死の二分法の彼方ないし此方にある肉体的な生存の次元を肯定し擁護する哲学の系譜を取り出す。すなわち、プラトンデリダパスカル、マルセル、ジャン=リュック・ナンシーフーコーである。また、社会的な意義を考えるためにパーソンズを取り上げる。(p.10)

という。また、

 ソクラテスの哲学とプラトンの哲学の関係を考え抜いたら、どんな哲学が開かれるのだろうか。そんな問題意識を抱いていたのが、モーリス・ブランショである。(p.55)

として、『謎の男トマ』の一節を引用し、このアイデアブランショに由来することを開示する。第1章では、『パイドン』をソクラテスプラトンの対決線を際立たせるための読みであったとし、謎の男トマのいう「プラトンを付けくわえたソクラテス」とは、いかなる哲学者か、どんな知恵と秘儀をもたらしてくれるか、たぶん、本書によって、「病人の生に関わる哲学の資源を紹介」されるのだろうが、いまひとつ、じっくりとこの文脈でじぶんの考えもまとめながら読み進めたいと思っている。このアイデアは、もうひとつ別の文脈の2つの事柄について併置してみるならば、同様に新たな視点をもららしてくれると思っている。これもやれば地道な作業になりそうだが、しばらく温めていたい。取り敢えず、線を引いた箇所を抜書き──
〈秘儀:人間家畜論〉(pp.20−27);

 奇妙なことに、ソクラテスは自殺を禁止している。ソクラテスは自らの手で毒薬を飲んで死ぬ手筈が整っているのに、これは自殺ではないと言いたげなのである(p.20)。……(省略)……
 生より死のほうが善い。しかし、自殺は不敬虔である。……善をなしてくれる他者とは誰のことか。……死ぬべき時、自ら死ぬべき時を告げてくれる他者のことである。その他者がやって来るのでなければ、無条件に生より死のほうが善いにしても、自殺することは控えなければならない(p.21)。……(省略)……
 それでも、ソクラテスによるなら、家畜の自殺や事故死や自然死が許される時がありうる。「善をなしてくれる他者」たる飼育者が、当の家畜を殺そうとする時である。……
 ソクラテスは、飼育者と家畜のこの関係を、神々と人間の関係に転用していく。家畜の場合と同様に、人間の自殺が許される時は、人間の生命に配慮する神々が、人間の死を贈与せんとするその時だけである(p.24)。……
 ……死刑囚は、アテナイが飼育する家畜である。しかも、死刑囚は、死期を知らされている家畜である。とすると、死刑囚に自殺が許される時があるとしたら、それは、アテナイが死ぬことを命ずるその時である。だから、自殺は禁止されても、その時に自ら毒薬を飲むことは許されることになるかもしれない(p.25)。……
 ……要するに、自殺が許される特異な時が到来したということを、いかにして人間は知ることができるのであろうか。ここでも、できるはずがない。ソクラテスにしても、そこは弁えていたはずである。しかし、それでも、ソクラテスは、自殺でもなく他殺でもない仕方で、自らに死を与えることが許される特異な秘められた時があると信じようとしている。死刑の定められた時とは無関係に、その時がやって来るかのように信じようとしている。何としても、特定の時に自らの手で毒薬を飲んで死ぬことが、善き死・正しい死・美しい死であると信じようとしているのだ。まさに尊厳死論者としてのソクラテスである(p.26)。

ソクラテスの魂論の正体〉(pp.31−37);

 ……ソクラテスの魂論は、リアルに生と死を考える上ではまったく役に立たないものである。だから、むしろ、この魂論は別の方向から捉え直されるべきである。すなわち、ソクラテスがいかなる肉体を忌避しているのかというところから魂論は捉え直されるべきである。そして、プラトンが病気だったとき、いかなる肉体を引き受けて死んだも同然の生を生きていたのかというところから魂論は批判的に捉え直されるべきである(p.34)。
 ……ソクラテスが侮蔑するところの死刑囚の状態とは、魂が肉体に縛られているのに魂自身が肉体に縛られていることの最大の協力者になっている状態のことである。要するに、牢獄の中で低次元の生を生きる状態のことである。これが、ソクラテスの哲学が見抜いていることだ。
 すると、こうなる。死刑判決を喜んで受け入れる模範的死刑囚の欲望とは、魂が肉体に縛られ糊付けにされている死刑囚の状態を侮蔑する欲望と同じである。とすると、死刑囚の状態を侮蔑し、死ぬことによってその状態から脱出しようとする死刑囚こそが、最高に善き・正しき・美しき死刑囚であることになる。言いかえよう。死期を決められた後で、末後の生を侮蔑し、死ぬことによって末期の生から逃亡しようとする人間こそが、最も敬虔な神の家畜であるということになる。この死刑囚=家畜は、自ら死ぬことを、「徳を得るための正しい交換」「知恵そのもの」であると見なしさえするだろう。これが「秘儀」(四二頁)の正体である。これが、プラトンの哲学が見抜いていることだ。なぜなら、その時、「プラトンは病気だった」。プラトンは、牢獄の外で、「どう仕様もなく」肉体に縛り付けられて、別の仕方で死ぬことの練習をしていたからである(p.37)。

〈生と死のリサイクル〉(pp.38−45);

 ……ソクラテスによるなら、生殖の過程における魂と肉体は、何と死者の魂と死せる肉体でなければならないからだ。死者の魂と死せる肉体が結合して、どうして生けるものが出来るのか。結局、ここに仄見えるのは、子どもは先祖の生まれかわりといった類の日常的な幻想と同じ死生観である。血統や生殖系列の連続性を捏造しようとも、ゲノムの流れを捏造しようとも、生と死を反対のものと捉える見解、及びそこから派生するさまざまな死生観、更にそこから派生するさまざまな輪廻転生などの幻想を、それなりに筋の通った議論に変えることはどうあっても無理である(pp.42−43)。
 ……問題の焦点は、過程に線を引けると思い込むというそのことが、生体と死体を二つの異なる質的な状態と見なしてしまうこと、さらに、生体から死体への変化を何か重要なものの喪失や欠如と見なしてしまうことをどう評価するかということである。
 ソクラテスは、死の瞬間、生と死を区切る線を、生体から魂が欠落する変化と思い込んでいる。そして、暗黙のうちに、魂が入り込む以前の肉体のことを、魂の欠如した死んだも同然の肉体と見なしている。とすると、ソクラテスは、魂が抜かれたかのように見える肉体が存在とするなら、それは本来の生から脱落し、死の状態に限りなく近接する、死んだも同然の生と見なしていることになる。ソクラテスは気付いていないようだが、ここでまったく奇怪なことが起こるし起こらざるをえない。ソクラテスが推奨する哲学者の生とは、死んだも同然の生であったはずなのに、ソクラテスの死生観からすると、何とそれは非本来的で低次元の生と等しいものになるのだ! 実は、これこそが、ギリシア時代以来の魂論の秘められた争点なのである(pp.43−44)。
 ……魂の欠如した肉体とは、死体のことであるにしても、それはまた、知性的な機能を喪失した生体、運動機能を喪失した生体、感覚機能も喪失した生体、栄養摂取機能と生殖機能だけを保持する生体のことでもあるのだ。これこそが、哲学者が侮蔑する肉体でありながら、哲学者が死ぬことを練習することで目指している死んだも同然の生体なのである(p.45)。

〈善をなしてくれる他者〉(pp.49−51);

 終に、ソクラテスのもとに、「善をなしてくれる他者」、善き死を与えてくれる他者が到来する。「毒薬を与える役目の男」(二七頁)がやって来る。……ところが、長い対話の果てに、ソクラテスは、その男に、「善き友」と呼びかける。

〈実験的牢獄としてのオレゴン州〉(pp.51−54);

 ソクラテスの哲学は最近になって法制化された。プラトンの哲学を抜きにして、ソクラテスの口を借りたプラトンの警告(「蜜蜂のように、針をあとに残して立ち去ってゆくかもしれない」)を無視して、法制化された。「プラトンは病気だった」ことを忘却した哲学の伝統が公認化されたのである(pp.51−52)。

また本件の資料として、加来彰俊著『ソクラテスはなぜ死んだか』(岩波書店 2004年3月)を求め、こちらを読み始める。

専門でないとはいえ、ソクラテスの死についても、いつのまにか、形式化させてしまっているのに気づく。ロラン・バルト著/篠沢訳『神話作用』の中の「II 今日における神話」から思い当たることのマーキングとして、一部メモ。

 形式になることによって、意味はその偶発性を遠ざける。中味が空虚になり乏しくなり、歴史は蒸発し、もはや文字しか残らない。ここには読み取りの操作の逆説的な循環があり、また、意味から形式への、言語の意味表象から神話での意味するものへの、異常な逆行がある(p.152)。……(省略)……
 だがこれらすべてにおいて重要な点は、形式は意味を抹殺しないということである。形式は意味を乏しくし、遠ざけるだけであり、それを自分のものにして保持している。意味は死んでしまうように思われるが、それは猶予された死なのだ。意味はその価値を失うが生命を保ち、その生命で神話の形式は自らを養うのだ。意味は形式にとって、歴史の一時的な貯えのような、手に入れた富のようなものになり、一種の、急速な入れ代りの連続において、呼び出したり遠ざけたりできるものなのだ。絶えず、形式が意味の中に再び根を下ろし、そこから養分を吸い上げられるようになっていなければならない。とりわけ、形式が意味の中にかくれられなければならないのだ。神話を定義するのは、意味と形式とのあいだの、この絶え間ないかくれんぼだ(pp.152−153)。

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

ソクラテスはなぜ死んだのか

ソクラテスはなぜ死んだのか

神話作用

神話作用