2010年11月購入のDVD

先月(2010年11月)購入のDVDについて思い出すものを以下に列挙;

パリ、テキサス デジタルニューマスター版 [DVD]

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ヴィム・ヴェンダース PRESENTS レディオ・オン [DVD]

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ハメット [DVD]

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8 1/2 普及版 [DVD]

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ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム [DVD]

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エルヴィス・オン・ステージ 没後30周年メモリアル・エディション (2枚組) [DVD]

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フランク・シナトラ/ザ・グレイテスト・ストーリー [DVD]

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アンジェラの灰 [DVD]

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蝶の舌 [DVD]

蝶の舌 [DVD]

2010年9月23日 古書店にて『TOTO通信』2006年新春号を求む。

どしゃぶりの雨のなか、世田谷区の豪徳寺にある古書店で取り置きしてもらっていた『TOTO通信』のバックナンバー(49巻1号〜52巻4号 16冊)を取りに行く。世田谷線の山下で下車。2006年新春号に「立原道造の『ヒヤシンスハウス』」が特集されており、それを入手したかったがため。『TOTO通信』は2008年夏号からのバックナンバーがネットで読めるものの(http://www.toto.co.jp/tsushin/index.htm)、購読は建築関係者のみと断っている。本誌は無料(?)配布とは思えない完成度。帰宅後、Bigotのアップルパイを食べながら、ページを繰る。

2010年9月20日 妻と「立原道造記念館」(文京区弥生)を訪れる。

立原道造記念館の休館は、2010年7月14日11時7分の朝日新聞の記事で知る。

詩人・立原道造の記念館休館へ 経営悪化のため

 早世の詩人で建築家の立原道造(1914〜39)の詩集特装本などを収蔵する立原道造記念館(東京都文京区)が、経営悪化を理由に休館することになった。9月26日まで開催されている特別展「立原道造が遺(のこ)したものたち 愛蔵品を中心として」の終了に合わせ休館するという。

 同記念館は「道造を顕彰し後世に伝えたい」という道造の弟、故達夫さんの志に賛同した弁護士の故鹿野琢見さんが97年3月に開館した。しかし、鹿野さんが09年10月に亡くなり後ろ盾を失ったことに加え、長引く不況も影響したという。

 道造は早くから短詩型文学に目覚め、詩集「萱草(わすれぐさ)に寄す」「曉と夕の詩」などを残した。青春の出会いと別れの喜びや悲しみなどを、清らかで繊細な感覚で表現した。東大建築学科卒業後、建築事務所に勤めながら詩作を続けたが、結核のため24歳で亡くなった。
http://www.asahi.com/culture/update/0714/TKY201007140136.html

高校のときに親しんで読んだ詩人の一人に立原道造がいる。ジッドの『狭き門』をアンコンシャス・ヒポクリットだと思い、キルケゴールレギーネとの『反復』が実質、湿気って「想起(追憶)」に絡め取られようとしているように見えていたとき、小川和佑の『立原道造・愛の手紙─文学アルバム』(毎日新聞社 1978年5月)を手にした。水戸部アサイへの思いを「反復」として再度、捉えなおせそうに思って繰り返し読んだ(立原はアサイに『狭き門』を読むよう薦めていた)。『立原道造全集』はわたしの田舎では求めても得られず、あれほど欲していた『全集』も高校を卒業し、阪急梅田の「紀伊国屋書店」で見かけたとき、じぶんの情熱とすら再び邂逅することの難しさに驚いた(17歳のときのわたしの日記兼詩手帳は、立原をまねて『十七歳の覚え書』だった)。そのとき、親元を離れた四畳半のわたしの部屋で水戸部アサイへの『手紙』を出してきて読んだ。まだしっくりと読めた(詩集はやはり読めなくなっていた)。その頃、『反復』は、一貫したわたし自身のテーマだった。
上京して東京に出、本駒込に住み、千駄木、白山と移り住んだ。『手紙』を読み、墓地でデートするとはどういうことだろうと思っていたが、上京してからは谷中界隈もよく歩く散策コースとなった。
なにも平成9(1997)年に設立された「立原道造記念館」が閉館するからといって、後発の、短命な「記念館」にことさらに思い入れがあるというわけではない。おそらく、〈あのとき〉、置いてきたものの佇まいが、閉館に追い込まれる「記念館」とダブって立ち上がってきたということなのであろう(ラカンのいう‘小文字のa’か)。
「忘れつくしたことさえ 忘れてしまった」ということもないが、〈あのとき〉、の立ち上がる現在、改めてなす葬送儀礼のようなものとして記念館を訪れた。


購入したオリジナル出版物は以下の3冊;

立原道造と『四季』の詩人たち」
  図録/割引価格:700円(500+送料200)

 没後60年記念特別展
「『優しき歌』の世界 立原道造と水戸部アサイ
  図録(92頁)/割引価格:2300円(2000+送料300)

立原道造・建築家への志向」
  図録(42頁)/割引価格:700円(500+送料200)

立原道造・建築家への志向」については、ファイルメーカーにためているデータの内、1999年7月1日のasahi.comの記事に、「夭折の詩人・立原道造の未発表原稿発見、1日から展示」というのがある。

1939年に24歳で亡くなった詩人、立原道造の未発表原稿が見つかった。1日から東京都文京区の立原道造記念館で展示される。立原は、生前に『萓草(わすれぐさ)に寄す』『暁と夕の詩』という2冊の詩集を刊行し、音楽的な詩で根強い人気がある。だが、もうひとつ、建築家の顔も持っている。

この原稿は、建築家の立場から書かれたものだが、これまで知られているところでは、立原の建築に関する論文は2編しかなく、貴重な発見という。

原稿は、東京帝国大学建築学科で立原と親しかった友人の小場晴夫さん(85)宅の書斎に長年埋もれたままになっていた。昨年秋、小場さんから渡された段ボール箱を整理していた立原記念館の宮本則子研究資料室長が、古びた茶封筒に入っていたのを見つけた。

200字詰め原稿用紙8枚に黒インクで書かれている。「建築衛生学と建築装飾意匠に就ての小さい感想」というタイトルだ。芸術家らしく、新しい建 築デザインが今後、必要な時代になると提案している。

記念館の依頼で原稿を読んだ建築史に詳しい建築家の佐々木宏さん(67)は「光の取り入れ方、壁の厚さなど住まいの環境や機能を研究する建築衛生学は当時は軽く見られていた。立原の先見性の高さに驚く」と話す。鹿野琢見同記念館理事長は「詩と建築は一般的には水と油なのに、立原の中では苦もなく融合しているようだ。そういえば、ミケランジェロも詩を書いていた」と語る。

佐々木さんらによると原稿が書かれたのは、立原の手帳の記述などから推測して東大在学中の36年3月という。二・二六事件の直後で、軍部が急速に台頭してきた時期だ。

原稿の最後のくだりは「今日以降の(ナチス・ドイツの建築デザインである)新古典派建築に於ては、建築衛生学との融合こそ実に興味ある実践問題だと信じます」と、実現は難しいというニュアンスを込めて書いている。「立原が、建築の世界にも時代の波が押し寄せつつあることをやゆしていると読める」と宮本さんは話している。))

また、休館を伝える共同通信の記事;

詩人立原道造の記念館が休館へ 「寂しい」と名残惜しむ声

 昭和初期に純粋で鮮烈な詩を数多く残し結核のため24歳で夭逝した詩人立原道造(1914〜39年)。自筆の原稿用紙など資料を集めた記念館(東京文京区)が資金難のため26日の営業を最後に休館となり、ファンが名残を惜しんでいる。

 97年に開館したが、赤字続きのまま昨年オーナーが死去。新たなスポンサーも見つからず、運営が行き詰まったという。

 道造は、恋愛体験や花や鳥といったロマンチックなものを題材にしながら、孤独と悲哀にあふれた詩をつくった。記念館を10回ほど訪れたという千葉県市川市の会社員佐藤真由美さん(36)は「『夢みたものは ひとつの愛』といった、現実離れしたような詩を読むと青春時代を思い出す。直筆の文字や愛用の机を見られなくなるのは寂しい」と話す。

 記念館の資料は1万5千点。長野県上田市で戦没画学生の遺作を展示する「無言館」や「信濃デッサン館」を運営する窪島誠一郎さんに預けられ、展示方法などを今後検討するという。
2010/09/25 17:49 【共同通信
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092501000567.html

稀覯本の世界 −書誌 文学資料−」(http://kikoubon.com/)の過去ログのなかには、立原の『全集』には収められていない肉筆資料について言及あり。

立原道造・愛の手紙―文学アルバム (1978年)

立原道造・愛の手紙―文学アルバム (1978年)

「優しき歌」の世界―立原道造と水戸部アサイ (Hyacinth edition (No.4))

「優しき歌」の世界―立原道造と水戸部アサイ (Hyacinth edition (No.4))

「〈座談会〉来るべき精神分析のために」(十川幸司・原和之・立木康介、『思想』2010年第6号 pp.8−59)

「〈座談会〉来るべき精神分析のために」は、さまざまなヒントに満ち、線を引きながら面白く読了する。下線の部分を最後まで写しきれないが、以下は、読書中の確認をこめたその作業(アイデア部分は記さず)。

I 歴史篇
〈現状の概観〉
(立木)……ここ二、三〇年のあいだに、精神分析精神分析を取り巻く精神医学や心理臨床の分野で起こった変化や転換を考える大きな出来事として、一九八〇年にDSM−III(『精神疾患の分類と診断の手引き(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)』第III巻)というアメリカ精神医学会の診断マニュアルの改訂版が出されたことが挙げられます。そこでは「ヒステリー」という診断が消え、「神経症」というカテゴリーが解体されてしまった。……精神分析神経症と歩みをともにしてきました。それがアメリカの精神医学で解体されてしまった(p.9上)。
……DSM-IIIで神経症概念が解体されたあと、それに取って代わるかのように、一方では、症状がより局在化された形で現れる摂食障害のようなトラブルが増えてくる。他方、一九八〇年代には特にボーダーライン(境界性人格障害)が大きかったと思いますが、各種の人格障害が目立ってきた。……それは北米に限った現象で、……ECF(Ecole de la Cause freudienne)の分析家たちは、その時期まで、しばしばこういう言い方をしていました。「多重人格障害DSM-IIIを中心とするアメリカの精神医学界が抑圧したヒステリーの回帰だ」と。
……
ところが、一九九〇年代後半になると状況が変わってきて、……それがはっきりとした形で出てきたのが、一九九八年にECFの大きな会合で精神病の問題が扱われた時でした。ジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げて、それがまたたくまにEDFの中で広まり、今では普通名詞のように、あるいは診断名のように使われています。

「普通の精神病」について;

(立木)……明らかに神経症ではない構造をもつ主体なのに、はっきりと発症した精神病にも見えない。シュレバーのようなパラノイアや古典的な統合失調症分裂病)のタイプにもあてはまらない緩い形、精神病の状態がいわば「普通に」生きられているように見える主体の問題は、妄想や幻覚といった具体的な病理現象というより、おうおうにして、ある種の社会的不適応、つまり社会の中に場所をもてないという形で現れてきます(p.10上)。
 ……
(立木)フランス全体、ラカン派全体の状況で言うと、ECFが「普通の精神病」という形でポスト神経症時代の臨床の中心に精神病をもってくるのに対して、シャルル・メルマンらのALI(Association Lacanienne International=国際ラカン協会)は「倒錯」という概念を前面に出してきました。……ポスト神経症時代の主体の支配的な構造を精神病と見るか倒錯と見るかによって、フランスの二大ラカン学派の主張が分かれているのは注目に値します(p.10下)。
 ……
(立木)ECFでは、症状の「意味」を読み取る従来のセマンティックな作業から、プラグマティックな作業に、つまり、語用論的とは言いませんが、「症状使用論的」な作業に分析のあり方が変わってきたという認識が今では一般的です。症状の「意味」よりも、症状が現実界あるいは享楽との関係でどういう役割を果たしているかという点、つまり症状の機能が問題になるわけですね(pp.10下−11上)。

精神分析の危機〉
(立木)……「抵抗」、「転移」、そして「子供のセクシュアリティ」ですが、この三つは抑圧と直接にリンクしている。……だから、フロイトが挙げている四つの概念すべてが最終的には抑圧に行きつく。まさに抑圧は精神分析理論の中心だったのです。ところが、どうも今はそうではないように見える。神経症概念が解体されてしまっただけでなく、まるで神経症的な症状形成のメカニズムそのものが成り立たなくなってしまったかのように、神経症が臨床の中心から退いてしまった。これは裏を返せば、抑圧を中心にした心的経済がもはや重きをもたない状況が現れているということです。
 しかし、こうした状況は一九八〇年代に始まったのでしょうか(p. 11下)。……
 ……ということは、実は第一次世界大戦後から、抑圧はもう精神分析の実質的な中心ではなくなっていたのかもしれない。それが一九八〇年代の神経症の解体を受けて、前面に出てきただけなのかもしれません(p.12上)。

(原)……西欧の歴史では、「汝自身を知れ」の命令で代表されるような自己の認識と並んで、自己への配慮が古典古代の時代から重要な役割をもっていて、そうした自己への配慮と哲学の構想が少なくともデカルトまでは密接に結びついた、とフーコーは述べています。しかしデカルトを転回点として……そうした結びつきに大きな変化が生じた。この変化をフーコーは、「霊性」と「哲学」を対立させる形で定義した上で、「霊性」から「哲学」へのシフトとして理解しています。フーコーの言う「霊性」とは、真理に到達するには自己を変容させなくてはいけないという立場でさまざまな実践を行う活動です。これに対して彼は「哲学」を、真理への到達がもっぱら認識を介してなされるとする考え方として規定します。そして、古典古代からデカルトまでは「自己への配慮」と「自己の認識」という二つの軸をもっていた思考の営みが、デカルト以降、認識のほうにシフトした。……
 その上で、フーコーデカルト以降の歴史の中で、特殊な地位をラカンに与えている。つまり、ラカンは主体と真理の問題を分析知の中から立ち上げる形で初めて結びつけた、主体の真理の問題を立てたのはハイデガーラカンだけだ、という強い断言をしているのですが、これは、いったん認識のほうにシフトした哲学が徐々に自己への配慮に回帰するようなファクターを持ち始めた、という流れの中で理解できるように思います(p.14)。

(原)……実際、フロイト自身も、精神分析と哲学はまったく別個のものだと考え……(略)……その区別を際立たせようとしたことがあって、この関係はたいへん慎重に扱われてきました。しかし実際にはディスクールとしての近接という状況が生じてきている。他方で一九世紀以来、宗教的なものを参照しながらみずからのうちに霊性という契機、ある種の自己変容という出来事を射程に収めた哲学の潮流が出てきたとき、哲学の側からも、その流れとの関わりで精神分析を改めて位置づけることが必要になってきているのではないでしょうか(p.15)。

(十川)……。確かに精神分析は教団というか、運動組織という性質をもっていて、その点を無視して精神分析を考えることはできない。
 スピリチュアリティについては最近いろいろな人が論じています。例えばジャン・アルーシュは、フーコーの発言に応答する形で一冊の本を書いています(Jean Allouch, Lapsychanalyse est-elle un exercice spiritual? : reponse a Michel Foucault, EPEL, 2007)。アルーシュによれば、真理に到達するために主体がいかなる変容を経由すべきかということを問題にするかぎりにおいて、精神分析スピリチュアリティと結びついている。しかし、そのスピリチュアリティは宗教的なものとは異なり、むしろ宗教に危機を及ぼし、宗教のセクト的なものに穴を開けるものだとアーシュは強調しています。
 それからクライン派の中では、ネヴィル・シミントンというビオンの影響を受けた分析家が『精神分析スピリチュアリティ』(原著 一九九四年、北村婦美・北村隆人訳、創元社、二〇〇八年)という本を書いていて、はっきりと「精神分析は成熟した自然宗教である」と言っています。こういうことを分析家が言うのはリスクがあるわけですが、彼はあえてそのような言い方をしています。シミントンが言う「宗教」には二つあって、単純な区別ですが、原始宗教的な側面と成熟宗教的な側面です。フロイトが批判したのは救済のような意味合いを込めた原始宗教──この定義はシミントン独自のものですけども──であって、成熟宗教のほうではない。クライン派の文脈に組み入れるなら、この原始宗教的な側面は、宗教的心性がいまだ妄想分裂ポジションにある状態であるのに対し、成熟宗教的側面においてはそれが抑鬱ポジションに達していることを意味しています。精神分析の営みも、抑鬱ポジションをワークスルーすることによって、成熟宗教における魂の状態と同じ境地を目指している。そういうニュアンスで「自然宗教」という言葉を使っていたと思います。ラカン精神分析スピリチュアリティを徹底的に切り離して考えていましたが、最近になって両者を近づけて考える人が──多数派ではないにせよ──出てきているようです(pp.15下−16下)。

(十川)……抑圧という概念の治療論的な意義について言えば、今、この概念を正面きって使う分析家は、自我心理学に属する分析家の一部を除いて、ほとんどいません。無意識的なものを上から押さえつけるという、抑圧という概念がもつイメージが臨床感覚にフィットしないということもあるでしょう。さらにクライン派の「投影同一化」という概念が浸透したことも大きい。投影同一化という機制は、フロイトが抑圧という概念で説明したことを十分に覆うだけではなく、この概念のほうが、精神病も含めた広い範囲の精神疾患防衛機制を説明することができます。また、精神医学の領域では、解離というメカニズムが、現代的な主体においては、抑圧よりもよく見られる防衛システムとして捉えられる傾向にあることも、抑圧という概念が背景に退いていった要因となっています(p.17)。

(十川)……結局、フロイトの理論で残っているのは中立性や転移解釈などの技法的なところだけで、フロイトの理論の画期的な更新はメラニー・クライン(一八八ニ―一九六〇年)、ビオンで終っている、というのが現状ではないでしょうか。
 ……ウィニコット(一八九六―一九七一年)の流派に属する、クリストファー・ボラスという人が「フロイト精神分析の敗退」という論文を載せていて、精神分析家を養成する制度──先ほどの言葉を使うなら「教団」──を批判しています。もはや多くの人々は高いお金を払って精神分析家のもとに行く価値はないと考えるようになっている。その最大の原因は、何よりも分析家の養成制度が、フロイトの治療論の本質──彼はそれを患者側の自由連想と分析家側の「平等に漂う注意」の創造的な結合に見ています──を伝えることができなくなっているからだ、と彼は書いています。
 さらにもう一つ……「今、精神分析はどういう状況にあるか」という質問に、ジャン=ベルトラン・ポンタリスが「精神分析は何をやっているかといえば、精神分析家をどんどん作っている。そしてそれしかしていない」……「分析家が分析家を作り、その分析家がまた分析家を作るシステムができあがっていて、分析家の再生産のシステムに変わってしまっている。純粋な患者はいない」ということなのです(p.18)。

精神病理学の消滅と精神分析
(十川)……
 精神病理学は病者の生きていることの全体を考える学です。そこでは、まず患者という存在を把握することが重要であり、治療はそこから導き出される、という発想がある。一方、精神分析は何にもまして治療学です。先に述べたフロイトの疾病分類に関しても、治療的観点に基づいた分類になっています。フロイトは言うまでもなく最初の精神分析家ですが、最初の精神病理学者だった──当時そのような学はまだなかったのですが──と考えることができます。彼の思考法は、精神分析的であると同時に精神病理学的です。むしろ、この二つの学に区別がなかった、と言ったほうが正確ですね。この二つの学は、その後、主として取り上げる対象疾患の違いによって──つまり精神病理学が精神病をフィールドとし、精神分析神経症を治療対象にすることによって──分岐していきます。……(省略)……(p.19)

(十川)……全般的に言えるのは、フロイトの時代と比べて、今は患者がみずからの生を物語る能力がなくなってきている、ということです。このような現象も病理の軽症化と何なかの関係があるのかもしれません。フロイトの患者たちは物語る能力に長けています。そして、その語りが、患者が秘めた病理に向かって収束されていきます。一方で、現代の患者たちは──ヒステリー患者は貴重な例外です──みずからの生を散漫とした形で、明確な歴史もエピソードも作ることなく生きているように思えます。そういう患者たちの語りは、病理の所在がはっきりせず、また語りが病理の核心に向かうことがない。こういう患者側の変化も精神分析の衰退の一つの要因になっているように思えます。つまり、生が希薄化、断片化していて、しかもそれらが言葉によって歴史化されていないため、言葉を治療手段とする分析治療が鋭角的な手ごたえをもったものとして機能しない。……分析家は、患者の側の変化を敏感に感じ取ることなく、いまだに硬直した理論で分析行為を行っています。……(p.22)

II 理論篇
〈情動について〉pp.22下−29下
……
(立木)……ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされることです。その状態のパラダイムは「不安」ですが、それ以外の形で情動にアプローチするのはなかなか難しい。……それに対して十川さんの場合は、システムとしての他者のコミュニケーションに触発されるという点が重視されています。十川さんは、子供が両親の会話に耳を傾けていたり、子供が寝ているところで両親がコミュニケーションをしている状況──十川さんは「原風景」と呼んでおられます──に注目なさっていますが、子供はそこまでまさにコミュニケーションにアフェクトされ、触発されている。そこから自己のコミュニケーション回路が徐々に形作られ、情動調律というプロセスを通じて情動的なコミュニケーションが始まっていくわけですね。コミュニケーションとしての情動。そこに焦点があてられています(p.23)。
(原)……ただ、情動のレベルと言語のレベルをきっぱりと分けておられますが、それらは一体となって機能している部分が強いのではないか、という気がしたんです。
 ……
 そのカップリングを、一方の作動が他方の作動を引き起こす形で理解する。そのとき、ラカンであれば、おそらく言語という枠組みの中で情動の問題も考えることができる、と言うのではないかと思います。その二つのレベルを分けることが理論的にどういう含意を持っているのか 、……(p.23下)
(十川)こういう構想のアイデアは具体的な臨床経験から浮かんだものです。例えば、自由連想において、患者の言語の動きと情動の動きには明らかなずれがある。それゆえ、分析家のほうも、言語という水準と情動という水準の二つのレベルで耳を傾けなくてはいけないことが多い。このずれがもっと明らかになるのは解釈の場面です。明らかに正しいと思われる解釈を行っても、患者は知的に理解するだけで、情動的にはほとんど反応しない場合があります。しかし、それが別の場面では、患者がその言葉を情動を巻き込んだ形で理解し、心的変化が起きることがある。これは従来、抵抗や解釈のタイミングの問題として考えられてきた事柄です。……しかし、抵抗や解釈のタイミングといった観点からでは、とても理解できない局面のほうが圧倒的に多い。そこから次第に、言語と情動を分けて理論化したほうが臨床的な現象をより的確に把握できると考えるようになったのです。
 ……(省略)……
(十川)……ここが私の構想の中核になる点だと思うので改めて説明しておくと、乳児が両親のコミュニケーションを傍らで聞いているというのは、自己経験の原型となる一つのモデルなんですね。乳児は両親のコミュニケーションに入っていない。それが次第に情動的な反応を示すようになり、言語的コミュニケーションも行えるようになる。最初はコミュニケーションの「外部」にいた乳児が、いつのまにかコミュニケーションを形成するようになっている。その際、重要なことは、子供は言語という構造化された場所に入るのではなく、コミュニケーションという謎と力に満ちた場所に入るということです。したがって、この場所で生じるさまざまな力は子供に傷を与える。また、コミュニケーションの場に入ることは、ある時から入って、あとはその「内部」にいる、といったものではなく、どのように入ったか分からないし、コミュニケーションを生み出し続けなければ、その「外部」に位置することになってしまいます。また、この原初の疎外経験は子供の空想の形式も決定しています。フロイトの「原風景」、クラインの「結合両親像」といったいくつかの外傷的な空想は、このモデルで説明することができます(pp.23−24)。

(十川)ラカンは、主体と真理の次元を媒介するものとして言語を想定しています。ところが、対象関係論の立場だと、主体は情動を通して人間のより深い現実に到達する、という考えがあります。この観点からすれば、情動が、主体が真理に達するのを防げるということはない。むしろ、情動の関与なしに真理という次元は出てこないわけです。ラカンの「現実界」とビオンの「О」(originの略)はよく比較対照されますが、前者が言語を媒介にして、言語を超えた次元を表しているのに対し、後者は情動と密接な関係をもっています。
 ……(pp.24下−25上)
(十川)私の構想はビオンの理論とは厳密な対応関係はありません。あえて対応させるならば、ベータ・エレメン トは、感覚の回路が病理形成的に作動することによって生じる感覚対象のことです(p.25上)。
 ……
 ……
(立木)ということは、情動はむしろ「アルファ・エレメント」(自我が夢や思考の素材として用いることができる心的要素)の次元から入ってくる、と考えるべきだということですね。方向性をもたず、主体が外に投げ出すことしかできないとき、それを聞き取り、包み込んで、もう少しまとまりのある情動的なもの、アルファ・エレメントに変えて主体に返してやる対象が存在しなくてはならない。この対象の機能をビオンは「アルファ機能」と呼んだわけですが、それによってアルファ・エレメントが夢や思考の材料として使えるようになるわけですね。ゆくゆくは主体自身がこのアルファ機能を内在化しなければならないのですが、これはクラインの言う「抑鬱ポジション」のビオンによる翻訳でしょう(p.25下)。……

思想 2010年 06月号 [雑誌]

思想 2010年 06月号 [雑誌]

昨日は挙式記念日──

昨日(5月30日)は挙式記念日にして誕生日(入籍は妻の誕生日で、こちらが結婚記念日)。午前中のうちに家を出、新丸ビル7階の喫茶‘HENRY GOOD SEVEN’にて3時近くまで「〈座談会〉来るべき精神分析のために」(十川幸司・原和之・立木康介、『思想』2010年第6号)を読んで過ごす。妻は師の小伝(『太極拳』)。
その後4階‘Bshop’にてル・クルーゼ ココット・ロンド(LE CREUSET COCOTTE RONDE 20cm−2.6L)を求め、‘SAWAMURA’にて晩い昼食。わたしはクスクスランチ、妻はパスタランチ。
さらにホーロー鍋を抱え、新丸ビルを離れ、銀座までウィンドウショップ。表参道店でチェックしていたTod'sのバッグは丸の内店では確認できず。銀座三越で夕食を見繕い帰宅。ローストビーフと手製のサラダ、‘よなよなエール’で乾杯。

Sakiko Yamaoka Performance Art ”Garden” full edition 03

Sakiko Yamaoka Performance Art "Garden" full edition 03 山岡佐紀子
http://www.youtube.com/watch?v=fvK_c2WAh0U

You Tubeで上記のパフォーマンスをみる。
黒のテープルクロスのかかった机の上に黄色のワンピースを着て立ち、身体をゆすりながらひたすら小石やボール、あるいは砂をワンピースの裾から振るい落としていく。ワンピースを脱げば、黒のスリップ。テーブルより降りて終りの挨拶。

閉じられた共同体において、子を分娩する女〈性〉の子宮こそが外部とつながり、冥界からの不可逆な帰路の秘密を託される。この劇場に幽閉された観客は、そのようなコンテクストにある。その胎内より、ひたすら、これでもかというほどの量の小石やボール、あるいは砂がこぼれ落ちていくのを目撃する。生命の誕生のある種の尊厳性を担保にして、このYamaokaの胎内より吐き出されるのは、1個の生身の女〈性〉が抱える血の道、女〈性〉が共同体より負わされた穢れでもある。それが劇場に投棄され、むしろ、観客に返品される。観客こそ中有の状態よりYamaokaの胎内を経、この此岸に投棄されたものと言えるのかも知れない。
もし、テーブルより降りたYamaokaに拍手をするならば(拍手が聞こえた)、そこには、排泄と洗浄を終えた聖なる女〈性〉が立ち上がるからだろうか。以上、寸感。

小泉義之著『病いの哲学』(ちくま新書 2006年4月)を読み始める。

「はじめに」および「第1章 プラトン尊厳死──プラトンパイドン』」を読み終えたところ。
小泉氏は、「はじめに」で、

(省略)要するに、本書で、私は、生と死の二者択一に抗して、生と死の二分法を越えるような存在の仕方を断固として肯定したいのであり、その重要な系として、病人の生を肯定して擁護したいのである。
 本書の前半では、肉体的な生存の次元に気付きながらも、死に淫していく哲学の系譜を取り出す。すなわち、ソクラテスハイデッガーレヴィナスである。だから、前半は、ある意味で、「敵」に塩を送ることにもなる。尊厳死安楽死脳死などを肯定する人の議論の水準を底上げすることにもなるからである。
 本書の後半では、生と死の二分法の彼方ないし此方にある肉体的な生存の次元を肯定し擁護する哲学の系譜を取り出す。すなわち、プラトンデリダパスカル、マルセル、ジャン=リュック・ナンシーフーコーである。また、社会的な意義を考えるためにパーソンズを取り上げる。(p.10)

という。また、

 ソクラテスの哲学とプラトンの哲学の関係を考え抜いたら、どんな哲学が開かれるのだろうか。そんな問題意識を抱いていたのが、モーリス・ブランショである。(p.55)

として、『謎の男トマ』の一節を引用し、このアイデアブランショに由来することを開示する。第1章では、『パイドン』をソクラテスプラトンの対決線を際立たせるための読みであったとし、謎の男トマのいう「プラトンを付けくわえたソクラテス」とは、いかなる哲学者か、どんな知恵と秘儀をもたらしてくれるか、たぶん、本書によって、「病人の生に関わる哲学の資源を紹介」されるのだろうが、いまひとつ、じっくりとこの文脈でじぶんの考えもまとめながら読み進めたいと思っている。このアイデアは、もうひとつ別の文脈の2つの事柄について併置してみるならば、同様に新たな視点をもららしてくれると思っている。これもやれば地道な作業になりそうだが、しばらく温めていたい。取り敢えず、線を引いた箇所を抜書き──
〈秘儀:人間家畜論〉(pp.20−27);

 奇妙なことに、ソクラテスは自殺を禁止している。ソクラテスは自らの手で毒薬を飲んで死ぬ手筈が整っているのに、これは自殺ではないと言いたげなのである(p.20)。……(省略)……
 生より死のほうが善い。しかし、自殺は不敬虔である。……善をなしてくれる他者とは誰のことか。……死ぬべき時、自ら死ぬべき時を告げてくれる他者のことである。その他者がやって来るのでなければ、無条件に生より死のほうが善いにしても、自殺することは控えなければならない(p.21)。……(省略)……
 それでも、ソクラテスによるなら、家畜の自殺や事故死や自然死が許される時がありうる。「善をなしてくれる他者」たる飼育者が、当の家畜を殺そうとする時である。……
 ソクラテスは、飼育者と家畜のこの関係を、神々と人間の関係に転用していく。家畜の場合と同様に、人間の自殺が許される時は、人間の生命に配慮する神々が、人間の死を贈与せんとするその時だけである(p.24)。……
 ……死刑囚は、アテナイが飼育する家畜である。しかも、死刑囚は、死期を知らされている家畜である。とすると、死刑囚に自殺が許される時があるとしたら、それは、アテナイが死ぬことを命ずるその時である。だから、自殺は禁止されても、その時に自ら毒薬を飲むことは許されることになるかもしれない(p.25)。……
 ……要するに、自殺が許される特異な時が到来したということを、いかにして人間は知ることができるのであろうか。ここでも、できるはずがない。ソクラテスにしても、そこは弁えていたはずである。しかし、それでも、ソクラテスは、自殺でもなく他殺でもない仕方で、自らに死を与えることが許される特異な秘められた時があると信じようとしている。死刑の定められた時とは無関係に、その時がやって来るかのように信じようとしている。何としても、特定の時に自らの手で毒薬を飲んで死ぬことが、善き死・正しい死・美しい死であると信じようとしているのだ。まさに尊厳死論者としてのソクラテスである(p.26)。

ソクラテスの魂論の正体〉(pp.31−37);

 ……ソクラテスの魂論は、リアルに生と死を考える上ではまったく役に立たないものである。だから、むしろ、この魂論は別の方向から捉え直されるべきである。すなわち、ソクラテスがいかなる肉体を忌避しているのかというところから魂論は捉え直されるべきである。そして、プラトンが病気だったとき、いかなる肉体を引き受けて死んだも同然の生を生きていたのかというところから魂論は批判的に捉え直されるべきである(p.34)。
 ……ソクラテスが侮蔑するところの死刑囚の状態とは、魂が肉体に縛られているのに魂自身が肉体に縛られていることの最大の協力者になっている状態のことである。要するに、牢獄の中で低次元の生を生きる状態のことである。これが、ソクラテスの哲学が見抜いていることだ。
 すると、こうなる。死刑判決を喜んで受け入れる模範的死刑囚の欲望とは、魂が肉体に縛られ糊付けにされている死刑囚の状態を侮蔑する欲望と同じである。とすると、死刑囚の状態を侮蔑し、死ぬことによってその状態から脱出しようとする死刑囚こそが、最高に善き・正しき・美しき死刑囚であることになる。言いかえよう。死期を決められた後で、末後の生を侮蔑し、死ぬことによって末期の生から逃亡しようとする人間こそが、最も敬虔な神の家畜であるということになる。この死刑囚=家畜は、自ら死ぬことを、「徳を得るための正しい交換」「知恵そのもの」であると見なしさえするだろう。これが「秘儀」(四二頁)の正体である。これが、プラトンの哲学が見抜いていることだ。なぜなら、その時、「プラトンは病気だった」。プラトンは、牢獄の外で、「どう仕様もなく」肉体に縛り付けられて、別の仕方で死ぬことの練習をしていたからである(p.37)。

〈生と死のリサイクル〉(pp.38−45);

 ……ソクラテスによるなら、生殖の過程における魂と肉体は、何と死者の魂と死せる肉体でなければならないからだ。死者の魂と死せる肉体が結合して、どうして生けるものが出来るのか。結局、ここに仄見えるのは、子どもは先祖の生まれかわりといった類の日常的な幻想と同じ死生観である。血統や生殖系列の連続性を捏造しようとも、ゲノムの流れを捏造しようとも、生と死を反対のものと捉える見解、及びそこから派生するさまざまな死生観、更にそこから派生するさまざまな輪廻転生などの幻想を、それなりに筋の通った議論に変えることはどうあっても無理である(pp.42−43)。
 ……問題の焦点は、過程に線を引けると思い込むというそのことが、生体と死体を二つの異なる質的な状態と見なしてしまうこと、さらに、生体から死体への変化を何か重要なものの喪失や欠如と見なしてしまうことをどう評価するかということである。
 ソクラテスは、死の瞬間、生と死を区切る線を、生体から魂が欠落する変化と思い込んでいる。そして、暗黙のうちに、魂が入り込む以前の肉体のことを、魂の欠如した死んだも同然の肉体と見なしている。とすると、ソクラテスは、魂が抜かれたかのように見える肉体が存在とするなら、それは本来の生から脱落し、死の状態に限りなく近接する、死んだも同然の生と見なしていることになる。ソクラテスは気付いていないようだが、ここでまったく奇怪なことが起こるし起こらざるをえない。ソクラテスが推奨する哲学者の生とは、死んだも同然の生であったはずなのに、ソクラテスの死生観からすると、何とそれは非本来的で低次元の生と等しいものになるのだ! 実は、これこそが、ギリシア時代以来の魂論の秘められた争点なのである(pp.43−44)。
 ……魂の欠如した肉体とは、死体のことであるにしても、それはまた、知性的な機能を喪失した生体、運動機能を喪失した生体、感覚機能も喪失した生体、栄養摂取機能と生殖機能だけを保持する生体のことでもあるのだ。これこそが、哲学者が侮蔑する肉体でありながら、哲学者が死ぬことを練習することで目指している死んだも同然の生体なのである(p.45)。

〈善をなしてくれる他者〉(pp.49−51);

 終に、ソクラテスのもとに、「善をなしてくれる他者」、善き死を与えてくれる他者が到来する。「毒薬を与える役目の男」(二七頁)がやって来る。……ところが、長い対話の果てに、ソクラテスは、その男に、「善き友」と呼びかける。

〈実験的牢獄としてのオレゴン州〉(pp.51−54);

 ソクラテスの哲学は最近になって法制化された。プラトンの哲学を抜きにして、ソクラテスの口を借りたプラトンの警告(「蜜蜂のように、針をあとに残して立ち去ってゆくかもしれない」)を無視して、法制化された。「プラトンは病気だった」ことを忘却した哲学の伝統が公認化されたのである(pp.51−52)。

また本件の資料として、加来彰俊著『ソクラテスはなぜ死んだか』(岩波書店 2004年3月)を求め、こちらを読み始める。

専門でないとはいえ、ソクラテスの死についても、いつのまにか、形式化させてしまっているのに気づく。ロラン・バルト著/篠沢訳『神話作用』の中の「II 今日における神話」から思い当たることのマーキングとして、一部メモ。

 形式になることによって、意味はその偶発性を遠ざける。中味が空虚になり乏しくなり、歴史は蒸発し、もはや文字しか残らない。ここには読み取りの操作の逆説的な循環があり、また、意味から形式への、言語の意味表象から神話での意味するものへの、異常な逆行がある(p.152)。……(省略)……
 だがこれらすべてにおいて重要な点は、形式は意味を抹殺しないということである。形式は意味を乏しくし、遠ざけるだけであり、それを自分のものにして保持している。意味は死んでしまうように思われるが、それは猶予された死なのだ。意味はその価値を失うが生命を保ち、その生命で神話の形式は自らを養うのだ。意味は形式にとって、歴史の一時的な貯えのような、手に入れた富のようなものになり、一種の、急速な入れ代りの連続において、呼び出したり遠ざけたりできるものなのだ。絶えず、形式が意味の中に再び根を下ろし、そこから養分を吸い上げられるようになっていなければならない。とりわけ、形式が意味の中にかくれられなければならないのだ。神話を定義するのは、意味と形式とのあいだの、この絶え間ないかくれんぼだ(pp.152−153)。

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

ソクラテスはなぜ死んだのか

ソクラテスはなぜ死んだのか

神話作用

神話作用