見田宗介著『現代社会の理論』読了。

見田宗介著『現代社会の理論──情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波新書 1996年10月);
ブータンで提唱されたGNH(国民総幸福量)の概念と水俣の地元学との「あいだ」に通底しているような問題の所在を急遽、把握する必要があったのだが、この文脈のなかで、数年来、読みかけにしてあった本書を初めから読み直し、この要求に合致することに驚きつつ、6月に読了する。
本書の第1章「情報化/消費化社会の転回」の第2節「デザインと広告とモード─情報化としての消費化」では、機能化・規格化・画一化による大量生産方式のフォード・システムに対するデザインと広告とクレジットを柱とする「GMの勝利」を分析しているのだが、折しも2009年6月1日の新聞では、GMの破綻が世界を賑わせていた──

GM破綻、米政府が発表 破産法申請「国有化」で再建へ(1/2ページ)2009年6月1日11時0分

 【ワシントン=尾形聡彦、ニューヨーク=山川一基、丸石伸一】経営危機に陥っていた米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)は6月1日(現地時間)に、日本の民事再生法にあたる米連邦破産法11条の適用を申請し、経営破綻(はたん)する。米政府が31日、発表した。今後も操業を続けながら、経営改革して再建を目指す。米政府は日本円で3兆円近い追加支援をするとともに、新生GMの株式の約6割を取得。米国や世界の産業界を代表する企業だったGMが「国有化」され、立て直しを目指す異例の事態になった。

 オバマ米大統領は現地時間1日昼(日本時間2日未明)に声明を発表する。GMのフレデリックヘンダーソン最高経営責任者(CEO)はその直後に会見を開く。

 GMの資産規模は3月末時点で822億ドル(約7兆8千億円)。破産法を申請した米製造業では過去最大で、金融業を含む米企業全体でも史上4番目の規模の倒産になる。3月末の負債総額は1728億ドル(約16兆4千億円)。

 米自動車業界では4月末のクライスラーに続く破産法申請で、大手3社「ビッグ3」のうち2社が経営破綻に追い込まれた。米新車販売の急減が続けば、3社の中で唯一、米政府支援を受けなかったフォード・モーターも救済を仰ぐ事態に陥る恐れもある。

 GMは今後、裁判所の管理下で、シボレーなどの主力ブランドや優良資産を受け継ぐ「新GM」と、不採算事業などを引き継ぐ「旧GM」に分離。新GMは債務や系列販売店の削減を進め、債務超過状態を解消し、60日から90日で、破産法下から脱却したい考えだ。旧GMは資産売却などを進めて清算する。新GMでは、旧GM経営陣の大半が交代する見通しだ。

 政府の計画では、米政府が301億ドル(約2兆8600億円)を追加支援。これまで供与した資金と合わせ、GMへの税金の投入額は総額約500億ドル(約4兆7500億円)にのぼる。GMが販売した車が故障した際の製品補償も米政府が支援し、3億6100万ドル(約340億円)を積み立てる。また、工場があるカナダ政府とオンタリオ州政府も計95億ドルを融資し、12%の新GM株を取得する。
http://www.asahi.com/business/update/0601/TKY200906010065.html

 米政府が保有することになるGM株について、米政府高官は31日、「政府が要望したものではなく、再建の過程で必要になっただけだ」と強調した。

 一方、全米自動車労組(UAW)の退職者向け医療基金は新GM株の17.5%、無担保社債を持つ債権者は10%をそれぞれ受け取る見通し。さらにUAWは2.5%分の株式を、債権者は15%分の株式を追加取得できる権利も受ける。30日までの事前交渉の結果、UAWは再建策に合意。債権者も、債権額で少なくとも54%の無担保社債保有者が合意した。

 加えてUAWからの要請を受け、新GMは米国内での生産比率を現在の66%から70%に上げることも約束した。

 GMは燃費効率が悪い大型車の比率が高いことがあだとなり、日本メーカーなどの攻勢やガソリン高で販売シェアを失った。08年は米新車販売台数のシェアは22%台まで低下。退職者向けの年金や福利厚生などが手厚く、1人当たりの労務コストが日系メーカーなどと比べ高いことも響き、資金繰りに行き詰まった。

 GMは米政府から昨年12月、総額134億ドル(約1兆2700億円)の融資を受けていったんは破綻を免れた。だが、その後も販売減に歯止めがかからず、166億ドル(約1兆5700億円)の追加支援を要請。米政府から支援継続の条件として、5月末までに抜本的なリストラをまとめることを求められたが、自力では債権者らとの交渉をまとめられなかった。
http://www.asahi.com/business/update/0601/TKY200906010065_01.html

GMの勝利」を分析──

 それよりも以前の段階の資本主義の、機能化し、規格化し、画一化する大量生産方式の極限というべき、フォード・システムの結晶である「T型フォード」車が、GMの新しい自動車販売/生産戦略、デザインと広告とクレジットを柱とする、ソフトなより包括的な戦略、「消費者の感情と動機と欲望に敏感な」システムの前に敗退し、生産の停止にまで追い込まれたのが、この一九二七年であった(p.21)。

この勝敗は、「情報による消費の創出を常態とする時代の開幕を告知」(p.22)するものであったが、この論は内田隆三が『消費社会と権力』において展開しているという。また、

 フォード・システムのこの思考法は、人間の作業の工程を徹底的に分解し標準化し規格化し、「秒単位で刻まれた時間」の上で合理的に組み立てるという方式をとるテイラー・システムを典型とする、「科学的管理法」の思考と正確に対応している(p.22)。……(略)……
 テイラーと同じ機械工出身の技術者であったフォードの創始者ヘンリー・フォードとは対照的に、ゼネラル・モーターズ創始者デュランは、「工業技術についてまったく無知だったことが知られている。」デュランはその代わり「消費者の声に敏感に反応することができる」組織に大きな権限を与えるシステムをうち立てた。この組織は当初、「美術と色彩の部門」と名づけられていた(リースマン/リーラビー、同書)。
 デュランはデザイナーのハリー・アールを副社長に抜擢したが、これはもちろんこの時代の産業界では空前の機略であった。アールは「自動車は見かけで売れる」という原則をGMの政策として確立する。彼は一九二七年型の「ラサール」を手はじめとして、三二〇〇万台の自動車をデザインし、自動車というものを「創造力を駆使してつくられる金属製の彫刻」たらしめた。
 それは老フォードの機能の合理主義に対する、「デザインと広告のための年々のモデル・チェンジ」という戦略の勝利であった。(同書)(p.23)

さらにメモをつづける。

 人間はどんな欲望でももつことができる。必要でないものを欲望する自由(あるいは狂気)、必要から離陸した欲望の抽象化された空間が、a/uの自由に加速する運動*1を可能にしている。
 「デザインの勝利は次のようなことを示す。すなわち車の外見には決定的なものがない。」リースマン/ラーラビーはこのように記す。決定的なものがない、というこの空虚の無根拠性が、「形式の自由な世界を開く」。
 「自動車は外見で売れる」というゼネラル・モーターズの政策は、潜在的に無限の容量をもつ市場を見出したということである。
 「老フォードが相関項とした欲求は、いわば容量の限られた、自然に存在する素材のようなものに過ぎなかった。無限な容量は空虚な形式にこそ宿る。」(内田、前掲書)
 「近代」という社会のあり方がその基底として形成してきた、「世界のみえ方」のわくぐみとしての、自由な空虚な無限性の形式としての空間は、空間を語る人たちの間で、「デカルト空間」の名でよばれてきた。情報の解き放つ欲望のデカルト空間というべき「形式の自由な世界」が、「消費社会」の運動を保証する空間であり、運動を保証する空間として消費社会がじぶんで生成しつづける世界の形式である。(pp.26−27)

ちなみに、

 マルクスはこの純粋な資本主義、資本制システムの自立と完成の形式を見ないで死んだ。そして資本主義の形成途上の形態、労働の抽象化された自由の形式のみを前提し、欲望の抽象化された自由の形式を未だ前提することのできない資本主義の形態を、このシステムの純粋な完成態と見てその理論のモデルを作った(p.31)。

とあることについて、先に言及した鷲田小彌太著『学者の値打ち』のなかの吉本隆明埴谷雄高論争を、以下、メモしておく。

 これに対して、吉本は、社会主義崩壊をもたらす原因は、資本主義「現代」から資本主義「現在」への変化にあり、それが社会主義の存在そのものを不要とする、とのべる。もとより、資本主義「現代」はマルクスが目前にした資本主義「古典」とも異なる。この資本主義の構造変化の解明なしに、あいかわらず、「古典」ないしは「現代」モデルで世界を通覧しているのが、埴谷だ、と断じる。この三モデルの根本相違はどこにあるか。市民社会と労働社会の、分離(「古典」)、流動(「現代」)、混在(「現在」)にある。それに応じて、国家の役割が異なり、生産と消費の関係に根本的な変化が生れる、と吉本はいう。
 吉本は、資本主義的「現在」は、プロレタリアートの解放競争で、社会主義に相対的に勝利した、という。そのメルクマールは、労働日の短縮である。生産・労働(労働日)と消費(非労働日)の意義が、逆転しつつある、ということである。労働と節約──貧困を脱するための生存──がモットーであった社会からの、離陸である。
 消費は、怠けであり、浪費であるという「倫理」にとらわれている埴谷から見ると、高度産業社会で消費文明を享受している日本の労働者(と彼らを肯定的に見る吉本)は、「堕落」に他ならない、ということになる。日本帝国主義が、東南アジア各地の人民から「搾取」した分け前を脳天気に味わっている、ということになる。
 資本主義「現在」は、埴谷のような「倫理」的思考を無効にする、と吉本はのべる。およそ、社会科学が、この問題に成功裡に答えをだした例を、私は知らない。
 ……(略)……
 資本主義「現在」は、どうも資本主義社会としてまとまったイメージでとらえてきたものとは異なる「境界線」に入ろうとしているのでは、という。つまり、資本主義の「限界」が突破されようとしている、ということだ。もう少しいうと、資本主義を無意味にするようなステージに、いま社会は入ろうとしている、といっているわけである。
 資本主義の勝利は、同時に資本主義の終わりの始まりである。……『学者の値打ち』(pp.208−209)

見田[1996]の第2章「環境の臨界/資源の臨界──現代社会の「限界問題」I」の第1節「『沈黙の春』、第2節「水俣」……とこちらが欲していた文脈に水俣を定位しており、さらに第3章で、分かりやすく暫定的な用法として、「南の貧困/北の貧困──現代社会の「限界問題」II」を扱う。

 (「南の貧困」)スーザン・ジョージは、『なぜ世界の半分が飢えるのか』という本の中で、「豊かな社会」の高度化しつづける消費水準が、「世界の半分」の飢えをつくりだすメカニズムのうち最も直接的で見えやすいものは、必須食料品である穀物の、家畜飼料化、嗜好品の素材化と共に、基本食料の生産にあてられていた土地の収奪(輸出商品への作物転換)である(見田p.92)と指摘している。自分たちが生きるために必要なものを禁止されて、外貨を稼ぐための輸出商品への作物転換を余儀なくされ、この貨幣の世界に投げ込まれたことによって、彼らは飢えるようになるわけである。
貧困な層の定義として、世界銀行等でふつう使われるのは、一日あたりの生活費が一ドルという水準である。1990年には、貧困ライン以下に12億人が存在していたという。現代のこれらの(「南」の)人びとの大部分が貧困であることは事実であろうが、GNPが低いから貧困であるのではないであろう。GNPを必要とするシステムの内に投げ込まれてしまった上で、GNPが低いから貧困なのである。貨幣をはじめから必要としない世界の「貧困」を語るのは、空を飛ぶ鳥も野に咲く百合も収入がないから「貧困」だということと同じくらいに、意味のない尺度(p.107)といえるであろう。
アメリカの原住民のいくつかの社会の中にも、それぞれにちがったかたちの、静かで美しく、豊かな日々があった。彼らが住み、あるいは自由に移動していた自然の空間から切り離され、共同体を解体された時に、彼らは新しく不幸となり、貧困になった。経済学の測定する「所得」の量は、このとき以前より多くなっていたはずである。貧困は金銭をもたないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもたないことにある。貨幣からの疎外の以前に貨幣への疎外がある 。この二重の疎外が、貧困の概念である(pp.104−105)。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人びとが投げ込まれる時、つまり人びとの生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、「所得」が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として、近似的な尺度として、現れる(p.105)。(見田は、「南の貧困」をこの第一次の引き離し、GNPへの疎外、原的な剥奪をまず照準とせよ、と指摘。P.108)
 
 (「北の貧困」)現代の情報消費社会のシステムは、ますます高度の商品化された物資とサービスに依存することを、この社会の「正常な」成員の条件として強いることをとおして、原的な必要の幾重にも間接化された充足の様式の上に、「必要」の常に新しく更新してゆく水準を設定してしまっている。新しい、しかし同様に切実な貧困の形を生成する(p.111)。
この新しく「吊り上げられた」絶対的な必要の地平は、このようにシステムが自分で生長し設定してしまうものだけれども、同時にこの現代の情報消費社会のシステムは、(この新しい「必要」の地平を含めて、)〈必要から離陸した欲望〉を相関項とすることを存立の原理としている。原的な必要であれ新しい必要であれ、すでにみたように現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーケット」として存在する「需要」にしか相関することがない。システムそれ自体の運動の中で、ますます複雑に重層化され、ますます増大する貨幣量によってしか充足されることのできない「必要」を生成し設定しながら、「必要」に対応することはシステムにとって原理的に感知するところではないという落差の中に、「北の貧困」は構成されている(p.112)。……それはシステムの排泄物である。つまりシステムの内部に生成されながら外部化されるものである(p.112)。→政策的「手当て」、福祉。福祉という領域が、節約や肩代わり、自己負担、合理化の対象として議題に上るのは、福祉というコンセプトがその原的な目的においてではなく、システムの矛盾を補欠するものとして、消極的な定義しかうけていないから。
現代の情報化/消費化社会のシステムは、必要を離れた欲望の無限空間を開くことによって、限定されることのない発展の軌道をシステム自身が見出したものである。……この新しく獲得された開発/発展の無限空間は、その生産の起点においても消費の末端においても(※大量生産の前には大量採取が、大量消費の後には大量破棄があること)、資源/環境的な「限界」をたちまちに見出す。それはさしあたり、このシステムの外部の諸社会、諸地域への転移によって遠方化され、不可視化される。資源として、環境として開発され収奪された外部の諸社会、諸地域は、生きることの自然的、共同体的な基盤を解体し、貨幣を媒介としてしか生きられないシステムの内に編入されてゆく。
この原的な解体と剥奪によってはじめて、生存と幸福にとっての条件の絶対性として、貨幣の一定量に対する「必要」が形成される。けれどもシステムは、原理上「必要」には無関心であるから、離陸された側としての「必要」の地平はみたされることのないまま、この剥奪の二重性として、「南の貧困」は放置され、拡大される。この域外的貧困は、直接にも「豊かな社会」の域内にも流入するが(移民労働者、等々)、「豊かな社会」はそれ自体の域内にもまた、貧困の新しい形を生成する。世代から世代にわたって解体され離陸されつくした自然と共同体とは、自立し共生して生きる能力も奪われた身体と身体関係を生み出し、幾層にも複雑化され商品化された物資と「サービス」に依存することなしには生きられないものとして、まして幸福には生きられないものとして、これら身体と身体関係たちを飼い馴らす。都市や国土の空間の全領域も、仕事を獲得するために必要な条件の全システムも、数千ドルという単位の収入を絶対的に必要な水準として設定してしまっている。システムが自分で設定してしまうこの新しい「必要」の地平に対しても、システムは原理上その充足には無関心だから、吊り上げられたこの新しい「必要」の絶対性と、離陸されてある充足の水準との落差の内に、「北の貧困」の新しい形態が構成される(pp.117−118)。


本書は、終章の第4章、「情報化/消費化社会の転回──自立システムの透徹」において、方法としての二つの「消費」を分け、バタイユの〈充溢し燃焼しきる消尽〉(consumation)の可能性について提案する(‘societe’;フランス語のフォントを用いず)。

バタイユの消費社会論における「消費」consumationと、ボードリヤール以降の消費社会論における「消費」consommationとを、方法としていったん明確に分離しておくために、その差異を明示化するような日本語に展開しておくならば、consumationとは、〈充溢し燃焼しきる消尽〉であり、consommationとは、〈商品の購買による消費〉である。La societe de consumationとは、効用に回収されることのない生命の充溢と燃焼を解き放つ社会の経済であり、la societe de consommationとは、商品の大量の消費を前提とする社会の形態である。区別するために、consumationとconsommationを〈消費〉と「消費」……というふうにここでは表記しておくことにしよう。あるいは、消費社会の思考の系譜学に沿って、消費のコンセプトの「原義」と「転義」、(消費社会のコンセプトの「原義」と「転義」、)というふうにここでは言表しておくことにしておこう(pp.129−130)

注目すべき見田[1996]の見解は、「限界問題」が「消費社会」の廃絶なしには解決できない問題群と捉えておらず、「限界問題」が「消費社会」の不可避の帰結とは考えていないことである(p.133)。しかしながら、それには「消費社会」のある転回を必要とし、その基軸を明確にしていくことを課題として、バタイユの〈消費〉とボードリヤールの「消費」の2つのコンセプトにおいて、構想すべき「方法としての消費社会」の見通しを述べる。
まず原義としての〈消費社会〉が、生産を自己目的とするどんな産業主義的な社会よりも、自然の収奪と他社会からの収奪を少ないものとする仕方で構想することができる、とする(p.136)。

 バタイユがその三部作の中で、〈消費〉のいっそう積極的な表現としてのちに採用することになる、〈至高なもの〉の諸形式、──〈聖なるもの〉やエロティシズムや芸術の諸形態をみると、それは生産主義的な諸産物よりもいっそう力強く直接的な歓びを人に与えるものだけれども、どんな強烈な、あるいは深遠な感動のためにもそれが、必然に大量の資源の採取や自然の解体や他社会の収奪を必要とするものではない。たとえば絵画や詩の美しさは、それが使用するキャンバスの巨大さやパルプ材の量とは基本的に無関係である。あるいはいっそう人びとの日常の生の内にあるもの、歌や笑いや性や遊びのさまざまな形、他者や自然との直接の交歓や享受の諸々のエクスタシーは、〈消費〉の原義それ自体であるが、つまり、〈他の何ものの手段でもなく、それ自体としての生の歓びであるもの〉だけれども、それはどのような大量の自然収奪も、他社会からの収奪も必要としない。(pp.135−136)

見田は、「転義としての消費社会(=商品の大衆的な消費の社会)もまた、それが現在あるような形ではなく、その可能性について考えられるなら、「限界問題」をのりこえることがあるだろう」という。「〈消費〉をその原義において豊かなものとしてゆくための、方法としての市場システムを、破綻なく活性化しつづけるための形式として「方法としての消費社会」というべきものを構想しなければならないだろう」という。そのために、この「消費社会」が、資源や環境の臨界問題や、収奪的な貧困問題に帰結しない(歓喜と欲望の)解き放たれた無限空間の再定位を試みる。

予測される「方法としての消費社会」への批判について、擁護派、否定派への対論。
以下は、現在の「消費社会」を擁護する立場からの批判に対して、これには、「歓喜と欲望は、必要よりも本原的なものである」とする前提から、一歩深く踏み込んで現れる地平を説く。

 必要は功利のカテゴリーである。つまり手段のカテゴリーである。効用はどんな効用も、この効用の究極仕える欲望がないなら意味を失う。欲望と歓喜を感受する力がないなら意味を失う。このように歓喜と欲望は、「必要」にさえも先立つものでありながら、なお「上限」は開かれていて、どんな制約の向こうがわにでも、新しい形を見出してゆくことができる。
 「必要」の地平へではなく、〈生きることの喜び〉という地平への着地の仕方は、一つの社会のシステムのテレオノミー(目的性)を、いっそう原的な地平に着地する仕方だけれども、それはこの社会の活力の運動する空間の開放性を、有限なものの内部に閉ざすことはない。

「消費社会」の否定を求める立場の批判は、「ココア・パフ」(原料;トウモロコシ粉、砂糖、コーンシロップ、ココア、塩など)を例にとってなされる。つまり、ゼネラル・ミルズ社が、原料の25倍もの価格で販売していることの批判の再批判を見田は行っている。
「ココア・パフ」の成功の秘密の核心は、第一は食料デザインのマージナルな差異化、第二にネーミングであるとし、「「情報による付加価値」というよりもむしろ、基本的に情報によって創り出されたイメージが、「ココア・パフ」の市場的価格の根幹を形成し」て、25倍もの売り上げを得ることに成功したこと(飢えた人びとからの収奪はそれだけ少ない)の論理的な可能性の問題を重視する。

 〈情報化〉それ自体はむしろ、その一般的な可能性においてみれば、この事例の示唆しているように、現代の「消費社会」が、自然収奪的でなく、他社会収奪的でないような仕方で、需要の無限空間を見出すことを、はじめて可能とする条件である。(p.148)

つまり情報は、資源の有限性に対して、幸福のかたちの創造の無限空間を開く、というのである(p.152)。見田はこのような「消費のコンセプトが切り開いて見せる地平をその地平として、(手段主義的な貧困から自由な仕方で、)情報化のコンセプトを転回するなら、そして情報化のコンセプトが切り開いて見せる地平をその地平として、(マテリアル収奪的な幸福のイメージから自由な仕方で、)消費のコンセプトを転回するなら、この情報と消費のコンセプトの結合が一気に切り開いて見せる世界」(p.171)が自由な空間であるはずのものとして提案する。

見田はバタイユの〈至高性〉を定義して、〈あらゆる効用と有用性の彼方にある自由の領域〉であるとし、他の何ものの手段でもなく、それ自体として直接に充溢であり歓びであるような領域とする。そして、「バタイユは〈至高の生〉として、「たとえばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きにほかならないこともある」(『至高性』)」(p.167)のだという。
以上のような文脈において、いま、ようやく、ブータンで提唱されたGNH(国民総幸福量)と「水俣」の問題を並置して考えてみることが可能になったと思う。

またGMが破綻し、情報化の現在において〈消費〉がエコ車を志向しているところは、この文脈にあるといえるか。
水俣の地元学という前に、福岡県柳川市の共同体復興の物語、『柳川堀割物語』(高畑勲監督/宮崎駿製作)があることに触れられなければならないだろう。1987年公開のドキュメンタリー映画で、その年の正月、池袋の文芸座で友人Y氏とみたのだが、改めてDVDで入手し、先ごろ妻と鑑賞した。

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

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学者の値打ち (ちくま新書)

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柳川堀割物語 [DVD]

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*1:uは消耗のリズムであり、aは購買のリズム。「購買のリズムが消耗のリズムを越えていればいるほど、モードの支配力は強いわけである。」(ロラン・バルト『モードの体系』)